みたことないものをみてみたい

活字が好き。自称、ライター旅人読書人…様々な肩書を持つしがないOLです。

人生は、自由だ。【高学歴バンドに勇気をもらう】

音楽ではバンドが好きだ。

もともと10代の頃から、いわゆるJポップに馴染めないクチだった。

恋愛、恋愛、恋愛。好き、スキ、大好き、超愛してる。

うんざりだった。薄っぺらい恋愛ソングばかりがまかり通り、私の人生を救ってくれる曲はないじゃないか、そう憤慨していた高1の頃。

出会ったのはバンドだった。

世代が分かってしまうが、フジファブリックの陽炎のかっこよさにヤられた。歌詞についても商業主義の恋愛ポエムなんかじゃない、志村節に虜になった。

そこからはもう、音楽を聴いて聴いて聴いて。
聴いていくうちに、バンドをしている人の少なくない人々が結構お勉強ができる人たちであることを知った。

例えば、UNISON SQUARE GARDEN。andymori。カステラ。甲本ヒロト。ザ·ピーズ。

大学はそうでもなくても、高校が進学校だったりという人も多い。その事実に驚いた。


お勉強ができる人たちは、社会のレールに乗りやすい。なぜなら、そういう人たちは文化的再生産を考えれば文化資本にも、金銭的な意味の財産にも恵まれていることが多いからだ。教養も身に付き、教育にお金もかけてもらえる。
そんな環境なら開拓せず、人がひいたレールにそのまま乗っかるほうが楽に違いないし、困ることもない。親もそれを望むだろう。


それなのに、だ。
楽な道をぶっ壊して、ロックスターになるやつがいる。これって最強にロックだ。


楽な道を選ばずに、成功するかどうかわからない表現の道を選ぶ。大学時代までに売れなければフリーターになることも厭わない。もし売れても、いつまで売れ続けるか分からない。将来を約束されている立場の人が、そんな道を選ぶのだ。学歴なんて意味をなさない場所を、自ら望んで突き進む。それは、とても自由だ。(いや、貧困層じゃないからこそ明日の寝食を気にせず打ち込めるんだろという反論はちょっと置いておいてほしい。自分がそこそこ貧乏だったからわかるが、恵まれていなければ守るものも少なく、生活を変えたい思いから飛び出せる部分は多いと思う。独り身ならね。)




なんのしがらみもなく、自分の主観で毎日を生きる。それを小さなハコ(ライブハウス)で体現しているようで、こういったバンドはとても好きだ。この自由度にクラクラする。そして何故か、日常から抜け出せない私もそんな彼らに夢を見させてもらっているようで、、ほんの少し元気になるのだ。



今日も彼らのDVDを観よう。
人生は、自由なのだ!!!!!

このひとと生きていこうだなんて、みんなどうやって決めているんだろう

人は一人では生きていけない。
言い尽くされた言葉だ。

でも、みんなどうやって

「このひとと生きていこう」

という一人を決めるのだろうか。


結婚がその他の繋がりと一線を画すのは、
そう、「一人しか選べない」というところである。
誤解を恐れずに言うと、一人を選ばないで
やっているひとももちろんいるだろう。
でもそれはこと日本では異端で、
(そういう考え方があることは否定しないが)
たった一人しか妻、夫として認められないと
法律で決まっていることもあり
基本的には結婚相手には皆一人を選んでいく。

でも私には、みんながみんなどうやってその一人をえらんでいるのかちっともわからないのだ。




私はもちろん、共に生きていくのであれば私を大好きな人がいい。
ある程度の年齢までいくと、自分の感情よりは相手の感情を信じたくなる。誰かに認められ、愛され、もっというなら甘やかされたい。一緒にいるなら私のことを好きで好きでたまらない人がいいに決まっている。

人生は、愛される方が楽なのだ

…いや、こんな言い方だと語弊があるかもしれない。自分のことを無条件で好きだと、大事な存在だと認めてくれる者がいれば、次第に自尊心が満たされ、生活が変わる。人生が変わる。私は必要な存在なのだと自分でも認められるようになると、「生きている意味がない」だとか、「私なんて」というマイナスな感情を取っ払うことができるのだ。
だから、無条件で好きだと言ってくれる人がいい。




でも、そんな人本当にいるのだろうか。


だいたい人というものは変わる。


私のことを今ものすごく好きだと言ってくれても、
10年後は?20年後は?
人なんて、触れたもので価値観がぐにゃりと曲がる粘土のような存在だ。
相手も変わる。
私も変わる。
そんな中で皆何を信じて、ああ、人生を共に生きていくのであればこの人だ、という一人を決めているのだろう。決定打があるのであれば教えてほしい。


とりあえず今わたしができることは、
私のことを好きだと言ってくれる人が
これからも未来永劫私を好きでいてくれるという
根拠のない自信をつけることなのかな、



60

結局生き方に迷うのだ【綿矢りさ 「勝手にふるえてろ」の映画化で考えたこと】

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自分が「好き」と感じる人と

自分を「好き」と感じる人が

合致する確率は大変に低い。

たいていはあらゆるすれ違いの先に

「ま、この人ならいいか」という

どちらかの妥協があって恋愛的付き合いは始まるものだ。

 

しかし、若いころに真面目に過ごしてしまったばかりに

「妥協」を選べない人間もいる。

 

妥協が選べないとはどういうことか。

簡単に言えば

他人の恋を潰してしまうのだ。

 

だって、だってさ?

好き、と思っていないのに付き合って、

別に

好き、と思う人ができたらどうするの?

別れるの?

それでは、とても建設的な付き合いができているようには思えない。

そんな遊びの延長みたいな付き合いはしたくないし

相手にも大変失礼な気がする。

 

私はどうも知らないうちにずっとこの考え方でいたのだけれど

勝手にふるえてろ」の綿谷りさは言った

 

「自分の愛を受け入れてほしいという思いがあるのに

他人の愛は受け取れないなんて

なんて自己中心的なんだ」と

 

ああ、確かにそうだ

自分の感情だけ信じて

他人の感情は信じられないというのか

それこそとても 失礼なことではないか

 

そして

受け入れてほしい、受け入れてほしい と

必死に注ぎ込むよりは

大事に大事に大切に

宝物のように扱われるほうがいいに決まっている

恋愛においては能動的よりも

受動的なほうがいい

 

他人の愛を信じることは、本当は怖い

終わってしまったときに

自分のせいにできないから

 

自分の恋が終わるだけなら

「見る目がなかった」

その一言で片づけられる気がする

 

けれども

けれども

他人の恋が死んだら?

それは、私は、

「「あなたに選ばれなかった」」

そういうことだ

 

この事実が受け入れられないから

きっと今まで

他人の思いを受け取ることができなかった

真面目に生きてきた弊害

拒否されることが怖い

嫌いになんてならないでほしい

一生

 

でも

それでも

今こうして気づいて

変わろうとしたのなら

私も主人公のヨシカのように

他人の愛を信じることができるのだろうか

 

ああ、早く映画が観たいなあ。

 

60

才能とはなんだ。【崎山蒼志くんに見るSNS拡散時代の危険性】

才能とはなんだ。

 

崎山蒼志くんの音楽的才能が世間を騒がせている。

「才能が」「才能が」「すごい」「すごい」

深い感想を言い終わらないうちに

語彙力をなくした「すごい」の波が

圧倒的な高さを持ってSNSを埋め尽くす

この波は今後も爆発的に押し寄せて

きっと彼は一躍有名なスターになるのであろう

 

人類のうちの3割は自分の頭で考えないらしい

影響力のある人が「すごい」といえば

どんなものでも「すごいもの」に早変わりする人種が

確かに存在するのだ

彼らは飽きも早い

こういう現象を以前も見た

10年前のplenty

はやし立てられ、まくしたてられ

一気に逸材扱いされた彼ら

もう解散してしまったけれど

ああ、これは潰れてしまったということなのではないのだろうか

現に、最終公演はあまりSOLD OUTしていなかったそうだ

 

崎山くんはちょうど

私がすきなタイプの曲を歌う人だった

音楽に詳しいわけではないが

ナンバガのようなエモ系がハマる人には

ぐっとくる演奏 声 歌詞 雰囲気 たたずまい

なんだと思う

天才なのかは分からない

才能なのか、努力なのか、どちらもか

完成しているとささやかれる感性

 

だからこそ 急にスターのように扱われて 潰れないでほしい

早熟だと言われたからと言って

早熟なキャラを保たないといけないわけじゃない

不安定で不穏で哀愁のある

思春期を大事に生きて

曲を作り続けてほしい

 

まだ資本主義は彼を飲み込んでは駄目だ

 

40

 

 

 

 

 

議論し尽くされた問題 男女の友情は成立するか

年増になってはじめて
まぁまぁ男友達ができるようになった

でもたいていどちらかに恋人ができると
一気に駄目になってしまう
お互いの相手にも申し訳なかったりするので
一気に疎遠になるのだ

私はそこそこ緩いというか
もういい大人なので
意識せずに
男友達と二人で出掛けたりもするし
連絡を頻繁にとったりもする
この関係が心地よいと思う

長続きさせたいのに
上記の理由でなかなか続かない
結局は付き合っても別れたら疎遠になり
付き合わなくても疎遠になるのだ

そう考えると
男女の友情とは果たして。

女だけの世界ではあぶれてしまう
私の生きることのできる世界とは。

世の中は男女男女しすぎていて
ひどく生きづらい。
然し尚、私は誰かに求められることを
求めてしまう。

次回はコンビニ人間の感想でも。

会社は女を救わない

新卒で、朝から晩まで働いてきて、休日も上司に言われるがままに出社。

なんてブラックなんだと思われるだろうが、うちの会社はそんなに変な会社じゃないと思う。田舎なのにボーナス出るし、残業もある程度出るし、だからその辺の企業よりは給与をもらえる。

 

石の上にも3年というし、若いころの苦労は買ってでもしろというし。

あわただしい毎日を過ごしていたら、思いのほか年を取ってしまった。

友達の結婚式に出るたびに、ああ競争下に置かれていると思う。

 

仕事は好きだ。

社会の中にいる、ということを実感させてくれるし、クレーマーも含めいろいろな性格の人がいるから、それぞれの人に対する対応策を学ばせてもらえるし、純粋に楽しい瞬間もある。

でも、会社は女を救わない、と思う。

 

会社人間で、その後の人生プランの中に

旦那さんと過ごす毎日が入っていなければいいのだけれど

人間て弱いものだから、やっぱり、だれかと助け合って生きたいと思ってしまう。

助けたいし、助けられたい

そして、だれか一人に一番だよって選ばれる「選択される感」が欲しいんだよね

 

 

そうなったときに、会社は結婚してくれるの?

子供ができたあとも、友達は遊んでくれる?

私だけを選んでくれる?

 

答えはきっと否だ。

結局小悪魔な女が勝つのかということ

世の中には
男を自在に操れる女と
そうでない女の

二種類がいる


街にはピュア信仰がまかり通り
男に慣れてる女は駄目だ、
純粋な方がいい
と言う情報が
女子会でもネットでも本でも
まことしやかに囁かれている

だがしかし
果たしてこれは真実なのか??

20代も半ばに突入し
がんがん結婚していくのは
大学時代から長らく彼氏がいた子とか
彼氏が途切れない系の女子だ。

純粋でいたくて純粋でいた。
むしろ女友達のえぐい話は引いていた。
付き合ってもないのに、、とか
ノリで付き合ってみた、とか。
そういう軽さが信じられなかったし、好きな人がいても付き合うとかじゃなくて一緒に出掛けるだけで私は幸せだった。そして好きではない人に告白されてもノリで付き合ってみたりしない、お堅いそういう自分も好きだった。

でも結婚適齢期、残ったのはノリで付き合ってがんがん遊んでた友達ではなく、告白されても好きな人じゃないからと断ってきた
私のほうだった

そして気付いた
世の中の若い真面目な女の子は
多少遊んでおいた方がいいのだ

やっぱり世の中経験がものを言う

18,19で男の転がし方を失敗しながら覚えてたなら
相手の喜ぶ行動もとれるし、気のあるそぶりもできる
結果として付き合えて、その後も今までの踏み台にしてきた男たちとの経験を下地に、いい関係を築いていけるだろう

でもでも。
私にはそれがない。
なんかむやみに失敗できないのに
男の転がし方とかなにもわからない

だから、決意した。
私はデート100回ノックを決行する。