みたことないものをみてみたい

活字が好き。自称、ライター旅人読書人…様々な肩書を持つしがないOLです。

結局生き方に迷うのだ【綿矢りさ 「勝手にふるえてろ」の映画化で考えたこと】

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自分が「好き」と感じる人と

自分を「好き」と感じる人が

合致する確率は大変に低い。

たいていはあらゆるすれ違いの先に

「ま、この人ならいいか」という

どちらかの妥協があって恋愛的付き合いは始まるものだ。

 

しかし、若いころに真面目に過ごしてしまったばかりに

「妥協」を選べない人間もいる。

 

妥協が選べないとはどういうことか。

簡単に言えば

他人の恋を潰してしまうのだ。

 

だって、だってさ?

好き、と思っていないのに付き合って、

別に

好き、と思う人ができたらどうするの?

別れるの?

それでは、とても建設的な付き合いができているようには思えない。

そんな遊びの延長みたいな付き合いはしたくないし

相手にも大変失礼な気がする。

 

私はどうも知らないうちにずっとこの考え方でいたのだけれど

勝手にふるえてろ」の綿谷りさは言った

 

「自分の愛を受け入れてほしいという思いがあるのに

他人の愛は受け取れないなんて

なんて自己中心的なんだ」と

 

ああ、確かにそうだ

自分の感情だけ信じて

他人の感情は信じられないというのか

それこそとても 失礼なことではないか

 

そして

受け入れてほしい、受け入れてほしい と

必死に注ぎ込むよりは

大事に大事に大切に

宝物のように扱われるほうがいいに決まっている

恋愛においては能動的よりも

受動的なほうがいい

 

他人の愛を信じることは、本当は怖い

終わってしまったときに

自分のせいにできないから

 

自分の恋が終わるだけなら

「見る目がなかった」

その一言で片づけられる気がする

 

けれども

けれども

他人の恋が死んだら?

それは、私は、

「「あなたに選ばれなかった」」

そういうことだ

 

この事実が受け入れられないから

きっと今まで

他人の思いを受け取ることができなかった

真面目に生きてきた弊害

拒否されることが怖い

嫌いになんてならないでほしい

一生

 

でも

それでも

今こうして気づいて

変わろうとしたのなら

私も主人公のヨシカのように

他人の愛を信じることができるのだろうか

 

ああ、早く映画が観たいなあ。

 

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